「いのちの消費方法」という、私が精神的な問題でご飯を食べられなかった、食べることを気味悪いと嫌忌していた時期に「これが正しい!」と迷いなく描いたマンガがあった。正常に食事を摂れるようになってからはどうしてあんなにも食をおぞましいものだと信じていたのかよくわからない。そのマンガだって何度読んでも理解できない部分が多い。私はなんとなくそういう記憶が恐ろしく、その作品も含めて自分の中から遠ざけてしまっていた。でも昨日、ツイッターのとあるフォロワーさんが「いのちの消費方法」の収録された短編集を強く肯定してくれたから、なんとか美しいものになれる気がした。その人が信じてくれたことが私の中に綺麗にはまり込んだ、みたいだった。私は弱いから面と向かっては言えないけれどあまりにもその人のことがすきだ。この先どんなに世界が最悪でも、その人がいいと言ってくれたから私は私の描いたものを信用できる気持ちを手放さない。
私は感情激情爆発!みたいな作風の小説書きのくせに、小説原稿を離れると途端に感情を伝えるのが下手になってしまう。だからいつも上手く伝えられない。その人の言葉はツイッターのリプライとかそういう日常会話で使う範疇のものなのに使い方が綺麗だ。なんでなんだろう。すごいなあ。言葉の操り方を余りにも尊敬している。
知り合って4ヶ月、私はその人の好きな色も好きな花も好きな食べ物もまだ何も知らない。それでもその人にはいつか私の内臓の裏側のピンクまで全部見せたい、なんてきっと傲慢だと思う。それでも私なりに愛している。多分世界はまだもう少し傾ける。
0コメント