ちょっとね色々話す機会があって、死がいいとか悪いとか誰が決めんだろーって思った夜。それなりに考えちゃうよ。私の創作のほとんど全てには死ぬことが関わってる。でもそれは好きでやってるとかテーマ化させようとしてるわけでもなくて、ただ伝えたいことが死ぬことにあったり、美しいと思う生の瞬間が1番死に近かったというだけのこと。
病んでるとかメンヘラとかそういうアレじゃなくて、私は昔から結構本気で死を甘美なものだと認識し続けてるんだよね。死ぬことだけが命共通の最終地点だし。なんていうか、生の全てをギュッと閉じ込めるもののような感覚で「死」というものを捉えています。イメージは琥珀とか。
少し前のブログで「生み出した後の作品はもう二度と来ない今の感性を"○○年の自分"として閉じ込めた遺物のように扱う」っぽいことを言った覚えがあるんだけど、作品などの形として残るものが断片的な記録だとしたら生そのものは全て。○○年のとかじゃなくて全ての私を閉じ込めて公開して好きに決めつけてもらうようなイメージです。だから1番「ここぞ!」ってときに死にたい、と思っていたら病んでるとか言われがちなんだけど全然違うんだよー。私の人生こそ私の最大の作品です。1番良いところで思い切り発表したいし、まだ塗り足せるところでは辞めたくないし、良さが殺されるほど塗りすぎたりもしたくない。なんてね。ナナ格好つけてんじゃねーよ。
少し話は変わるけれど、生きたい人の助けを求めるサインとしての「死にたい」とか、現状が回復しないから死んだ方がマシという意味で使われる「死にたい」はもう絶対なんとかして救済されなければいけないし、その人達の方に光があるようにって、絶対的に思うけど。自分に何か出来ることがあるなら身を削ってでも生かしたいし。でももう自分の最終地点を見据えている人の、死にたい人の「死にたい」を否定する権限なんか誰にもどこにもないのではって思うようにもなって、生きることより大切な生きる方があったっていいんじゃないかとか、生だけを救いと定義することの方が視野が狭いんじゃないかとか考えたり。
もちろん軽々しく自殺を推奨するわけじゃないし、死にたいなら死ね!みたいに突き放したいわけでもないけど、それしかないならそれしかないんだもん。「この作者は○○歳で自殺して~」とかあんまり良くないようなニュアンスで言われるのだっていまひとつピンと来なくて、でも上手い言葉が浮かばなかったせいで、作者が生まれてから終わりを見つけるまでの○○年分の芸術はちゃんと凝縮されて今も輝いてるそれはきちんと美しいことだねとかそんなことしか言えなかったので、苦しい。
ちょうどいい終わり方のわかる人間になりたいなと思うよーだって死ぬことなんて1度しか選べないし取り消せないしセーブとかロードとかあるわけないし。でも私の尊敬している人物の中には死ぬまで創造し続けてまだ生を求めた人もいて、ちょうどいい終わり方なんてわかんなくても超絶格好いい生き方もあるから、うーんやっぱり生きられるところまで生きろ、的な? 私は常に誰かの生きる方向に在りたい。
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